幼き時の大やけど

 
まだ小学校に上がる前、囲炉裏にかけてあった鍋に落ちて大やけどをしました。親やお医者さんのおかげで回復はしましたが、今でもやけどの跡が残っています。電気屋さんのまねをしていて鍋に落ちたのです。

私の家は農家でした。町のはずれからさらに2kmくらい離れたところに住んでいましたが、私が生まれた昭和16年ころ家は裕福だったようです。
たくさんの田畑を持っており、ほとんどを小作の人に貸して年貢をもらっていたからです。

私の覚えている一番古い記憶は、母親の農作業について行って、抱えられるだけ精いっぱい菜の花を摘み取りながら、早くうちに帰ろうよとおねだりしていたことですかね。
その頃はまだ電気が来ていなく、ランプかカンテラ、それに蝋燭といったものでした。
カンテラは油を吸い上げる芯に火をつけるものですが、ランプはその火を包むようにガラスの煙突をつけ、そのガラスに乳白色の傘がついている高級品でした。
私はそのガラス製の煙突、確かホヤとか言っていたように思いますが、度々これを掃除していました。

そのうち電柱が立てられて電線が張られる工事が始まりました。
朝から晩までその作業をみていました。
ある時など、電工さんが蛇を捕まえてきて皮をむいてナイフで切り、焚火で焼いておられたのですが、「坊や、君の所にショウユはないかね、あれば持ってきて欲しいんだけどな」と頼まれて、醤油を持って行きました。
そうしたら、ああうまいな、と言いながら、どうだね一つ食べないかねと言って蛇の一切れを下さいました。硬かったけれども美味しかった記憶があります。
これは終戦少し前だったと思います。その時から家に電灯がともるようになったのですが、夜は家の外に光が漏れないように風呂敷で覆いを付けていました。空襲に際して目標が見えなくするためだったそうで、灯火管制と言われたのだそうです。
そうして空襲に備え、いつでも逃げ出せるように草履が壁にかけてありました。

昭和20年、私が4歳の時終戦となり、国の指示によって小作に貸していた田畑は全部無償に近い値段で取り上げられてしまい、親たちは大変な苦労を背負うことになったようです。
自分で耕作していた土地は残りましたし、山林も残りましたので貧乏とまでは行かなかったようですが、苦労したようです。

農作業は今のようにトラクターや耕運機はありませんから、牛を使って田畑を耕したり、荷物を運んだりしていました。ですから牛は大切に育てられ、食べ物は町の人々より良かったかもしれません。
牛に与えるために、囲炉裏で大きな鍋を使って麦をグツグツ煮ていました。

私は何を思ったのか、ヤーヤー電工さんだゾー、と声を張り上げながら、タコ糸を家中に張り巡らせて遊んでいました。
踏み台を使って高いところにも張りました。
ところが踏み台から足を滑らせ、落ちたところが、囲炉裏の鍋でした。グツグツ煮えている鍋です。
大きな音とともに火の上に鍋から麦からお湯ごと私が突っ込んでしまったのです。
悲鳴を聞きつけた両親が囲炉裏から引っ張り出し、灰だらけの私を頭から水をかけて洗いました。
そうして医者に走ったのですが、当時はまだ数少ない自転車が家にありましたので、父が私を背負って自転車に飛び乗って、町のお医者さんに走りました。
ところが、途中の橋が工事中で通れないのです。
父は事情を説明しました。
橋の工事屋さんたちが自転車を持って川を渡ってくれます。
父もズブ濡れになりながら私を背負って川を渡りました。

そうしてお医者さんで手当てを受け、やけどの跡は残りましたが、なんとかなったのです。
全部左側ですが、手の指全部、、手の甲、二の腕、首、耳の後ろに大やけどでした。
父への感謝の気持ちは今でも忘れません。

電気に興味を持ったのはこの電工さんのことが始まりだったのではないかと思います。
一切れの蛇とは関係ないと思いますが・・。
工事が進み電灯がついたことが嬉しかったのではないでしょうか。

次は小学校頃の話に移りましょうか。

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