大学(続)

 
大学では試験に合格しないと単位が取れず、留年になったり卒業できなくなってしまいます。もう時効でしょうから公にしますが、カンニングも多少はやりましたし、代返もしたりしてもらったりでした。

大学の同窓会は仲の良かった連中だけで行いますが、その時よく言われるのです。
「中田君のおかげで俺は卒業できたんだ。今でも恩に思っているんだよ」などと言われます。
こっちはもう忘れていますが、そう言われれば、物理や数学は試験の時こっそり答えを教えてやったことがありましたね。
でも英語だけは教えてもらった覚えがあります。

代返はやってもらいましたが最後は出来なくなってしまいました。
授業の時は先生が出席をとります。何々君、と呼ばれますから、ハーイと答えます。出席日数が足りないとやはり単位が取れないのです。
それで、今日はちょっとサボりたいというときには、友達に返事をしてもらうのです。出席を取られるとき名前を呼ばれたら代わりに返事をしてもらうわけです。
代理の人が返事をするというので「代返」と言われています。
ところがある時、友達に頼んでおいたのですが、「昨日は代返できなかったよ。先生が声が違う、もう一度返事してみろ、と言うものだからだめだったんだ」と。
先生は私の声を覚えてしまったのですよ。
特殊な存在だったからでしょうかね。

下宿はいろいろ変わりました。全部で7回引っ越ししました。
家庭教師で住み込み、家庭教師代と下宿代を棒引きにしてもらったこともありますし、うどん屋の2階に下宿し、食事は好きなものを店で食べてよいなどということもありました。
しかし一番印象に残っているのが駅裏に住んだ時のことです。
赤線廃止と言って女郎屋さん地帯が禁止になったすぐ後の空き部屋に住んだのです。
それでもまだ客引きがいて、男を引っ張っていました。私の部屋は道路側の2階でしたので、私の窓の下で声をかけているのです。
その付近にいる女性は私の顔を覚えてくれていますからいいのですが、駅からその下宿まで歩いていくうちに何度も声をかけられるのです。
見抜くのは鋭いですね。どんな格好をしていても学生だと見抜きます。
「学生さん、安くしときますから、どう?」と引っ張られるのです。
そういう時の返事は決まっています。「今済ませて来たばかりだからまた今度ね」。

駅裏の混とんとした場所ですからストリップ劇場もありました。
夜8時からだと割引になり、ちょうど良いところになるのです。
一時期病みつきになってしまい、毎晩通い続けたことがあるのです。
大学の前期の試験結果が良くなかったことがあるのですが、実はこれが原因だったのです。

まあ、そんな話はそこまでとして、卒業近くになりますと、企業から先生の所に、「良い子を回してもらえないでしょうか」と話のある時代でした。就活など必要なしです。
私の担任の先生は、ある会社の顧問として、技術的アドバイスをしておられ、会社との関係は相当深いものでした。
その先生が私に、「君は頑張ってくれたようだね、首席で卒業になるようだけど、どうだねこういう会社があるけど」と言って、先にお話した配電機器の会社を世話して下さったのです。
先生としてはこの男ならということで私を会社に推薦されたのでしょう。社長はその言葉を信じ、入社と同時に新製品開発に回されたのではないかと思われるのです。
入社試験というものはなく、ただ役員の方と面接しただけでした。

途中ではいろいろありましたが、大学には給費生としてトップ成績で入学し、卒業は電気工学科での首席となりました。
担任の先生の紹介でこの配電機器の会社に入り、53年間仕事をしたということになります。

次は、なぜ電気の道を選んだのか高校の時の話をしましょう。

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