中学校

 
中学のころはラジオ作りに夢中になっていました。真空管式ですし、組み立てれば出来上がるキットなんかではありませんから、なかなか難しく、うまく動作しないことが度々でした。でも近所に専門学校の通信教育を受けているお兄さんが居られ、指導を受けることが出来ました。

親戚のおばあさんの大事なラジオは分解してしまい、元には戻せませんでしたし、兄嫁が嫁入り道具に持ってこられた蓄音機も壊してしまいました。
中身がどうなっているのか知りたくてたまらなかったのです。

そのうち、ラジオの配線図を手に入れ、こうやって作ればよいはずだと分かりました。
一回の小遣いでは部品を買うのに足りませんので、何か月もかかります。
少しづつ買ってきて少しづつ作っていきます。

真空管を5本使うタイプになり、大きなアンテナを立てれば国内ならば日本中どこの放送でも大体とらえることが出来るようになりました。
「何月何日の何時何分から何時何分まで貴局の放送を受信しました。内容はこういう風でした」とその放送局に手紙を出しますと、「良く受信してくださいました。ここに受信証明書を発行します」と言うハガキが来るのです。
ベリーカードと呼んでいたように思います。
何枚もべリーカードを集め、自分で楽しんでいました。

中学の高学年ころから高校初めころには、電蓄を作りました。
まだ学校では習っていなかった「対数」という数学を使いました。LOGという数式です。この数式によってスピーカーボックスの設計をしました。
数学は得意でしたから、さほどその点は苦労しなかったですね。

結局、この楽しんできたことが、後の私の生活の糧となり、妻子を養うことが出来たのです。
好きこそものの上手なれ、という言葉もありますが、楽しんだことがそのまま基礎になってくれたのですから本当に私は幸せだったと思います。

中学の勉強はさほど身を入れた記憶はありませんね。
まあ、人並みにはやっていたのでしょうが苦労した記憶はありません。
成績は30人くらいのクラスで5〜6番だったでしょうか。1番とか2番になったことはありません。

高校に進学するかどうかも悩んだことはないです。最初から進学するに決めていましたから。
でもこれは当時は相当大変なことだったのですよ。
小学校の同級生の中では、高校に進学したのはたったの二人だけです。23人のうち2人です。
大学を意識した進学のための高校は一つしかなく、地方の全域から集まって来ますが、進学コースは2クラスで、60人か70人です。これだけに絞られるわけです。
地域全体の同年の人の中ではそれだけしか入らないわけです。

受験勉強などあまりしなかったですけどこの高校には入れました。
高校の後半には電気の工作をすることは少なくなったように思います。中学の時が電気工作に熱中した頃だったと思います。
高校を卒業し、大学も卒業して会社に入りました。
電気関係の会社です。
入社当初のことは別ページで書きましたが、このような小中学校のころの電気工作の楽しみがこの会社に入るきっかけともなり、仕事をこなす糧にもなったのです。

次は会社での働き盛りの時について書いてみます。

自伝 TOP  次頁