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私の家は農家でしたし、思い出ですが終戦前後のことですので、おもちゃなど何もありません。幼いころの遊びはいつも自分で考えばなりませんでした。人生など考えてもいませんがこのころから電気のことが好きだったのです。この幼いころ好きだった思い出は人生に大きく作用しました。 幼いころ 私の生まれ育った家は農家です。今でこそ暖冬などと言って冬も暖かく、雪もあまり積もりませんが、50〜60年前は少し違っていたようです。 12月は副業として正月用の"しめ飾り"を作って遠くまで売りに行っていたそうですが、その年はよく売れて嬉しくなり、温泉宿に泊まったそうです。 そのとき私が生を受けたのだと聞いています。 遊びと言っても今のように色々玩具が有るわけで無く、20cm位の木の棒をシーソーのように置き、高くなっている方を別の長い棒で叩いて飛ばす遊びとか、ビー玉などやっていました。 両親が北陸に旅行した時のお土産に、回すと音の出るコマを買ってきてくれたのは今でも覚えています。農家の収入から考えると、当時はきっと高価だったと思いますが、私の喜ぶ姿を見てきっと両親も嬉しかったに違いないと思います。 兄とは10才も離れていますので、あまり遊んでもらえず、私は一人で遊ぶことが多かったです。 どう言うわけか分かりませんが、電気工事のまねごとを家の中でやっていました。2階から階段を降りて幾つかの部屋を通り抜ける大工事です。電線のつもりで太いタコ糸を張り巡らせていました。 5才の時の事です。 電柱に見たてた脚立に登り、電気工事屋さんの真似をしていたのです。 ところが、何かのひょうしに脚立から落ちてしまったのです! その落ちた所が、囲炉裏です。 その囲炉裏には大きな鍋で麦が煮てあったのです。 これをひっくり返したのですから大変です。灰神楽といいますが、火柱ならぬ灰の柱がどどっと立ちあがったわけです。 そのなかに私がいたのですから大やけどを負ってしまったのです。 悲鳴を聞いて掛けつけた両親が、頭から水を掛けて洗ってくれました。 まだどこの家にも有ったわけではない自転車に飛び乗って、町の医者まで連れていってくれたのです。 所が途中で橋の工事がされており、通行止めになっていました。 父が事情を説明したのでしょう、皆で自転車まで担いで渡してくれたのです。 医者では指を一本一本丁寧に包帯で巻いてくれました。おかげでくっつくことなく、テンボにならずにすみました。 最近は、やけどしたら兎に角流水などでよく冷やせと言われます。 当時両親はそんなこと知るよしもなかったでしょうが、上から下まで灰にまみれていたものですから、水で丁寧に洗ったのだと思います。これが冷やす効果をもたらし、一命を取りとめたのだと思います。 それでも、今でも左の手の甲と、腕と首辺りにはやけどの跡が残っています。 こんな小さい時から電気のことが好きだったのですね。これは将来電気という好きな道を悔いなく生きる人生へとつながって行ったのです。 |