忘れられない
思い出
文通の行先

 
高校の終わりころ文通を始めたのが、忘れられない思い出につながって行きました。
人の心は自然に伝わるのですね。お互いに文通だけでなく、会ってみたいと思うようになってきたのです。大学は適当にサボりもできますから、ついにご対面にまでなって行ったのです。


文通の行先

高校の終わりころ文通を始めたのですが、その彼女に手紙で聞いてみました。「沢山申込みがあったと思いますが、なぜ私に返事をくれたのですか」と。
すると答えは、「はっきり言ってあまり上手な字とは言えませんが、内容が一番面白く充実していましたので」ということでした。
最初は二三人の方と文通していたようですが、半年もしないうちに私だけになっていたようです。

当時、文通において写真を交換するということは相当のレベルを意味していしました。
本来文通で情報交換するだけであれば互いの容姿は関係ないはずなのですが、それに興味を示すということは、おそらく互いに何かを意識してしたからでしょうか。
女性が写真交換の了解をするのはどのような程度を意味するのか私には未だに分かりませんが、男が了解するよりはおそらく決意が必要だったことと思います。
それでも以外にすんなりと承諾してもらうことができ、とうとう写真交換が実現したのです。

人間の欲というものはまったくあきれたものです。
写真が手に入ったら今度は会ってみたくなってきたのです。
それが片方のみでなく、両人とも同時に会ってみたいと思うようになってきたのです。

同じ思いだということは互いに分かりましたが、昭和35年か6年のこと。今のように、ハイそれならば、と言うわけには行きません。随分長い間その夢を暖めていましたが、とうとう中間地点で会うことになりました。
一泊二日です。男と女で一泊二日なのです。
私は絶対手を出してはならないと自分自身に誓いました。

最初の日、岩場のゴツゴツした道で、おまけに濡れていましたので、足元が滑りやすくなっていました。
そこで初めて彼女の手をにぎりました。手を出したのではありませんよ。ただ介助の為に手を握っただけですよ。
それでも嬉しかったですね。理由は介助にしろ、何にしろ、初めて会った彼女の手をにぎれたのですから。

宿では一つの部屋でしたが、本当に手は出しませんでした。岩の道でにぎっただけです。
当時はやっとテレビが世に出始めたころで、電気屋さんが歩道で見せていた程度ですから、もちろん部屋にテレビのあるはずがありません。
寝っ転がったりして長い間話をしていましたが、少しだけ寄って行きました。
「ひざ枕していい?」。了解の上で彼女のひざを枕にして横向きになり、話を続けたのですが、私の頬にポタッと何かが落ちてきたのです。彼女の涙でした。なぜ泣いていたのか聞いてみましたが回答はありませんでした。
でも、次の日別れ際、「また会えるといいわね」という言葉に涙の答えがあったように思えました。


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